金泉寺の由来

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太良嶽山金泉寺の由来

金泉寺は、空海 (弘法大師)が平安時代の初め頃(806~07)行基菩薩の遺跡を訪ね、ここに錫を留め山頂よりやや下った西側の清水のこんこんと湧き出る所に、身の丈四尺余の不動明王と二童子立像を刻んで本尊として建立した寺である。

太良嶽大権現の神宮寺として肥洲の真言宗道場として多くの信徒に崇められて来た。即ち祈祷仏教として名高く「国家安泰、五穀豊穣、航海安全、神仏混交の名刹」として遠近の崇敬の聖地として栄え最盛期には30余の宿坊を数えたと言う。

しかし、1200年余法灯を保っては来たが、その間には有為転変数々の歴史を刻んでいる。 大村郷村記に「太良嶽大権現は、大村家鎮護の宗廟として崇められ神宮寺を「太良嶽山金泉寺」と号した。後に大村純伊(1459~1537)は池田の里の富松宮の傍らに坊舎を建立し富松山仙乗院と号し金泉寺の里坊とした。また太良嶽大権現の分霊を遷し奉り富松社を下宮とした。」とある。

天正2年(1574)キリスト教徒の焼き討ちに遭い金泉寺とともにその被害を蒙った。

太良嶽縁起には次のように記してある。「天正11年(1583)キリシタン教徒の焼き討ちに遭い舜恵法印は本尊を護って岩穴に留まっていたが3年後湯江神津倉に草庵を建て聖躯を安置した。今の別院医王寺である。

その後78年寛文3年(1663)諫早第4代領主茂真の保護を得て、中興の祖と言われる賢海法印によって金泉寺は再建された。領主は30余石の扶持米を供進し、農民の加護と武家の守護を祈願した。 金泉寺室町時代は大村氏が保護し、キリシタン焼き討ち後は諫早家が保護して来たようである。

江戸時代には特に多良岳信仰が盛んになっている。

~出典,2011太良嶽山金泉寺再建委員会編「太良嶽山金泉寺再建のあゆみ」より~

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